アヴァンギャルドとマルクスと<疎外>された人々 富田克也『国道20号線』(2007)

f:id:changchangchang:20200802175913j:plain

アンディ・ウォーホル≪Brillo Box≫,1964年(カナダ国際美術館)。タイトルの”Brillo(ブリロ)"とはアメリカの食器洗いパッドのことで、これはその外箱である。ありふれた洗剤の箱でさえも、消耗品と言う「道具」としての本質を洗い流し、商品がアート作品になってしまえる記号性を備えているということを表現している。

今、大学のオンライン必修講義で現代美術について学んでいるのだが、その講義では1年間「アヴァンギャルド」という前衛芸術形態にフォーカスを当ててそれが人間社会における「疎外」状況とどのような関わりを持つのかについて研究している。アヴァンギャルドアートとは現代アートのことで、トイレの便器を芸術作品にしたマルセル・デュシャンや、アメリカの大衆的な家庭用洗剤の外箱そっくりの木版を並べたものをアート作品としたアンディ・ウォーホルのように、ありふれた日常の中にもデザイン・アートの片鱗が満ちているという、絵画を主な芸術形態としていた19世紀以前の既存の枠組みを超えた表現方法のことでもある。美術史家のデビット・コッティントンの言うように、アヴァンギャルドとは一言で言うと「疎外の乗り越えへの試み」である。「疎外」のあり方には、社会的孤立や、宗教的迫害など様々な形態があるが、広義的にはアヴァンギャルドの元祖とされるマネに始まる19世紀後半から現在にまで至るアーティストの神髄には、常に文明社会におけるメインストリームからの「疎外」が主たる主題となってきた。また、アドルノによると、現代アートの形象は「システムを批判する力」だと言う。ドイツの思想家テオドール・アドルノは芸術作品が商品化し芸術マーケットとして文化産業へと墜ちゆく危うい性格を持つことを予期していた。だからこそ「すべてが道具的な交換原理に従属している社会における自己疎外への否定の試み(=人間性アイデンティティの顕現)」をアヴァンギャルド芸術の中に見出したのだ。

ところで、アヴァンギャルドと疎外の関係性を十分に捉えるためには、我々は芸術的文脈からしばし離れなくてはならない。なぜなら、「疎外への乗り越えへの試み」は、芸術の世界で問題とされるはるか以前から、ある社会思想の領域でプロブレマティックに議論されていたからだ。オーエン、サン=シモン、フーリエ等に始まる社会主義思想は、資本主義的な社会システムにある「人間の<疎外>状況」から脱却する社会の姿を探し求めていたのだ。ではまず、社会主義で扱われる経済学での「疎外」の意味を見てみよう。

 哲学、経済学用語としての疎外(そがい、独: Entfremdung、英: alienation)は、人間が作った物(機械・商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。

 ここで、その社会主義思想の中でも資本主義に根源的な批判を加えたことで有名な経済学者カール・マルクスの「疎外」概念の定義を見ていこう。

マルクスは、ドイツ語で「疎外」を意味するEntfremdungという用語をヘーゲルの『精神現象学』(1807年)から継承し、またフォイエルバッハの、神が人間の善性を客体化した発明である限り、それだけ人間は貧しくなる(「キリスト教の本質」)という思想も取り入れて、経済学用語に鋳直した。ドイツ語で「疎外」を意味するEntfremdungという用語は、他人(fremd)のものにするという意味を持ち、経済、社会、歴史的には、客体(道具)として存在するようになったものを操作する力を主体(人間)が失っている状態のことを指す。たとえば、あるものが私とは無関係であるという場合、そのあるものに対して私は無力なものとして疎外されていることになる。この疎外を克服することによって、人間はその本来の自己を取り戻し、その可能性を自己実現できるものとされる。マルクスは近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、モノが資本・土地・労働力などに転化することに注目した。それに対応し人間は資本家・地主・賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって機械を操縦する主人であることが失われ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なもの、「人間疎外」となっていく。

 

 

以上を持って人間の「疎外」状態について考えたうえで我々の日常生活を見てみると、そこには「疎外」というべき状況が随所に散りばめられている。

疎外が共同体からの逸脱・離脱状態を表しているならば、後者では疎外=支配とされていることは矛盾しているように思えるが、支配していたものに支配されるようになり主体性を失うというマルクスの提言する状態は、昨今のAI vs 人間論争にもオーバーラップする。また、表向きには一般的な社会から疎外され、自らの主体性を表現しているように見えても、実は自ら作り出した縦社会の中に縛られていて、なおかつ主体的というよりも従順的で同質的、社会システム内のサービスに依存するレベルまで享受している例もある。たとえば、ヤンキーや暴走族などファッションや行動形態に”反社会性”を帯びた人間がその顕著な例である。

 

地方都市とヤンキーの<疎外>

 

f:id:changchangchang:20200802172433j:plain

国道20号線」(c)2007 空族

 

暴走族だった人間のその後を描いた面白い映画に富田克也監督の国道20号線』(2007)という77分の映画がある。この映画はDVD化されていないのだが、あらすじを簡単に言うと「地方都市に住む元暴走族の若者の日常」を描いた作品だ。主人公である元暴走族の若者はいつも消費者金融とパチンコ屋を行き来して、その他はシンナーに明け暮れている。主人公には元ヤンの彼女がいて、ヤクザや闇金になった先輩がいるが、彼らの歩く街の背景にはいつも我々が見知った光景がある。プロミスとか、ドン・キホーテTSUTAYAにカラオケ屋、中古車屋、食い放題の焼き肉屋とだだっ広い駐車場。。。。地方都市や都市の郊外に住んでいる人なら分かる、国道沿いのチェーン店とATMの暴力的なまでの林立。監督である富田克也はこの映画を彼の生まれ故郷である山梨県甲府の日常をそのまま切り取ったものとして制作したが、映画公開後、全国のミニシアターで公開され、トークショーなどで彼が地方都市などに足を運ぶようになると、「パチンコ屋と消費者金融のATM,チェーン店ばかり。地元だけじゃなくて、日本全国のロードサイドが全部同じ景色になってしまっている」*¹と気づいたそうだ。香川県坂出市と言う小規模に栄えた港町で育った私は、大学に入り神戸市垂水区に居住するようになるが、垂水のある道路沿いの場所で同じような光景を見た時に、「ウッ」とくる圧迫感と閉塞感を感じたのを今でも覚えている。(坂出市の方は今では駅前は閑散とし、チェーン店も潰れるような少子高齢化社会と化してしまったが。)

f:id:changchangchang:20200802183105j:plain

定職にも就かず借金だらけの自堕落な毎日を送る主人公ヒサシに、暴走族時代の友人で闇金屋の小澤がある話をもちかける。

 

映画の中で、中高生時代に暴走族として社会の枠から離脱していたかにみえた主人公も、結局のところは社会の別の部分にきっちり所属し、また社会の各種サービスの享受者であり、抜け出せない被支配者であるという立ち位置をセリフの少ない映像によって可視化する。地方都市(あるいは地方)と言う存在は、その土地の持つ独特なローカルさと言う点で都市のメインストリームから外れ、都市の流行が2年遅れ、3年遅れで流通する場所だ(だから闇金やシンナーなど昭和~平成初期の歴史の遺物がいまだに蔓延する。初公開されたのが2007年だからかもしれないが)。その点においても一般的な意味においての<疎外>感があるが、周囲の人物や誘惑に流されるままに行動する主人公もまた主体を失われた被支配者と言う点で「疎外状態」にある。ローカル独特の閉塞感と疎外を生み出す社会構造が次第に泥沼感を招く様子は、我々のいる世界とは違う世界のようで、実は表裏一体、壁一枚隔てただけのような気もする。

 

 

*¹『総支配人・三上が聞く!Vol.08「平成というバブルの後始末の時代はもう終わりにしないといけない」富田克也さん&樋口泰人さん』2018.12.26

https://rockmagazine.jp/article/582/

 

 

 

カメラの向こうにあるのは<ホンモノ>の光景?<ニセモノ>の光景?:『貧しさを吸い取る者たち』(1978)

 

映画界は空前の「貧困ブーム」?

 2018年、万引きで生計を立てる血縁のない5人の生活を描いた是枝裕和監督の映画『万引き家族』が第71回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドール賞を受賞した。そして、その翌年の2019年、崖下の半地下に潜む人々の悲惨な格差社会を描いたポン・ジュノ監督の映画『パラサイト 半地下の家族』が同じ映画祭でまたもや同じパルムドール賞を受賞する。『万引き家族』も『パラサイト』も、リアルさや見せ方に違いはあれど、綿密な構成力や深みのあるキャラクター造形、細部まで行き渡った実地調査など、その背景にある”現代の貧困のリアル”を問題提起した映画として優れていたからこその受賞だったに違いない。

しかしながら、ここ最近の映画賞(のみならず書籍やドラマ)の動向を見ていると、どうもメディア全体に「貧困ブーム」のような一つのムーブメントが流行っているように思えてならない。昨今では日本においても待機児童問題からコロナ禍による企業倒産まで、貧困の話は今の先の見えない暗闇のような時代性と密接にリンクしているし、それだけ社会の貧困問題へのアンテナが以前に増して送受信しやすくなっているのかもしれない。今では殆どネットに取って代わられつつあるテレビ局も、数少ない視聴者の興味を引くために、とりあえず視覚的にインパクトがあってセンセーショナルな背景を持った人と”映像映え”するロケ地を求めるという、「いたちごっこ」のような関係性になっている。イギリスではChannel4の番組『Benefit Street』という生活保護受給者が多く居住する街の住民の生活を撮影したシリーズものの番組が賛否両論を巻き起こした。これはアフリカの貧しい子供たちへの支援CMのような所謂「お涙ちょうだい」系のドキュメンタリーではなく、元ヘロイン中毒者や無職の子持ちカップル、生活保護受給金ビールを飲んだり犯罪を犯したりするアンダークラス(一部)の日常を改変や修正なく赤裸々に撮影したことが、非難の原因となった。では、これがもし最初から映像的に都合の悪いシーンはカット・編集されて、本当の姿を歪めた「お涙ちょうだい」だけを全面的に出したドキュメンタリーだったらどうなるだろうか。

 

描かれた<現実>だけが本当の<現実>ではない。

「この作品は、”社会政治的”と思われるドキュメンタリー映画が増殖していながら、貧困ポルノともいうべき新たなジャンルを生み出すほどに、商業映画主義が貧困を搾取しているという現実を指摘するものだった。」

    ――― ルイス・オスピナ

f:id:changchangchang:20200801164012j:plain

『貧しさを吸い取る者たち』の1シーン。白人カメラマンがコロンビアの現地民にドキュメンタリーの取材を申し込む。

ルイス・オスピナ監督の映画『貧しさを吸い取る者たち(原文 The Vampires of Poverty Agarrando pueblo)』(1978)は、ドキュメンタリースタイルを模倣した「モキュメンタリ―」の手法を用い、カメラの裏側にある映像の真偽について問いかける。

コロンビアに取材にやってくるのは、一人は監督風の、もう一人はその助手ら二人組の欧米人の男。”貧しい国” コロンビアを撮ろうとする二人組は、外で遊ぶ子供たちに声をかけ、お金を投げて池に入らせることで”ストリートチルドレン”を撮影したり、なんてことない普通の家族と打ち合わせをして、たまたま見かけた古い家屋の前で”貧しい家庭”にインタビューをしたりする。しかし家屋の本当の住人が出てくることで事態は急変し、我々はこの作品が”モキュメンタリ―”であることに気づく。

 

「この作品は、”社会政治的”と思われるドキュメンタリー映画が増殖していながら、貧困ポルノともいうべき新たなジャンルを生み出すほどに、商業映画主義が貧困を搾取しているという現実を指摘するものだった」と山形国際ドキュメンタリー映画祭の特集カタログ『ラテンアメリカーー人々とその時間:記憶、情熱、労働と人生』(2015)の中でルイス・オスピナ監督が語っているように、作中では欧米人2人組がわざとらしいくらいに貧困層を搾取していく様子が描かれている。その誇張された大げささやツメの甘さは思わず笑ってしまうほどだが、「ドキュメンタリーをこんな風に撮っているわけがない」とは言い切れない自分にも少しぞっとしてしまう。貧困がテーマの者に限らず、ドキュメンタリーを見るときには多かれ少なかれ、「ヤラセなのではないか?」という気持ちが漂ってしまうからだ。ドキュメンタリーにおける「ヤラセ」が必ずしも悪いことではないと思うが、描かれた現実だけが「本当の現実」なのではない、ということを改めて考えさせられた。豊かになった現代日本においても、1億総中流の幻想は崩れ、貧困問題や待機児童問題がニュースやweb記事などで取り沙汰されるようになった。と同時に、それらのセンセーショナルな話題性あるトピックを餌にして視聴率をとろうとするメディアも存在するし、そういった問題がなければ食っていけない業界の者も存在することも事実だ。真実は当事者でないと分からない、というわけではない。しかし、本当の問題は、画面の向こうの目に見える光景だけではなく、我々の見えないところにもたくさん潜んでいる。

 

『貧しさを吸い取る者たち』(英題:The Vampires of Poverty /原題:Aggarando pueblo) コロンビア/1978/カラー・モノクロ/28分 

監督・脚本・制作=ルイス・オスピナ(Luis Ospina)、 カルロス・マヨロ(Carlos Mayolo)